久留米大学医学部 医学科4年 医療科学
〜医療情報処理法について〜
質問と意見 2009年

【1週目】
病院に情報部というのがあることに驚いた.
久留米大学病院情報部は1992年6月に設置されました.
他の大学ではもっと以前から医療情報部が置かれているところが多く,病院業務の情報化(病院情報システムの開発・運用・管理)に従事しています.医療の現場にコンピュータを導入することは,業務の効率化を目指し,経営改善を狙っているのは当然ですが,それと同時に医療の安全性を高めるためにも情報化は大変有用です.
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しかし,いかんせん,現在の日本の医療の現場には人が少なすぎて,情報の共有化を行おうとコンピュータ入力を行おうとすれば業務が増えてしまい,効率化・省力化にもならなければ安全性の向上にも十分な効果を発揮しているところは多くはないように思います.

同じようなことは特定郵便局でも起こっているようですす.
郵政の民営化によってコンピュータに打ち込む業務が増えたために窓口業務の時間が減った,と特定郵便局の局長さんがテレビの取材に答えて言っていました.
サービスと安全を両立させるためにはコンピュータを利用する方がはるかに効率的なはずなのですが,情報化を進めていく初期段階では,単に紙がコンピュータになる,と言うだけでなく,それまでにやっていなかったことやできなかったこともやろうとしている分,業務量が増えるのだろうと思います.

社会保険庁の『消えた年金』の調査が安倍元首相の選挙公約より遙かに遅れているのは,調査を行っている職員がサボっているわけではなく,自由民主党も認めているように人員不足が原因のようです.
『これだけの人員を投入すれば1年で片付く』という当初のプランは計算上は正しかったとしても,それだけの人員の確保ができることが前提です.
コンビニのレジ係ができる能力があれば十分,ということであれば容易に人を集められるでしょうけれども,ある程度以上の専門性やカンがないと務まらない業務では,人材確保がボトルネックになってしまいます.

TVドラマ『ER』を見ると,日本の医療ドラマに比し,医療職の人数の多さだけでなく,背景に大勢の人が写っていることに驚かれるでしょう.
それもそのはず,東京築地の病床数600の国立がんセンターの職員数は900人ですが,アメリカの私立のスローン・ケタリングがんセンターでは約600の病床数に対して職員数約5000人,テキサス州のM.D.アンダーソン病院では病床数530に対して,1万6千人もの職員が働いているそうです.
もはや赤髭の時代ではないのですから,医療の現場にはもっとたくさんの資源(人,予算)を投入しなければ高度な医療の提供と安全性の確保は困難でしょう.
困ったことに,人が足りていない職場も多いのに,一方では失業者も大量にいるのが,今の日本です.

今までの医療行政の下では,医療費自体は安く抑える一方で,各種の事実上の補助金(病院のホームページに掲載されている“○○指定病院”“○○拠点病院”などの指定を受けると入院料金に幾ばくかの上乗せができます)と差額ベッド料金などを認めることで病院はなんとか倒産せずに済んでいるようなものです.
ところが,この補助金自体が年々引き下げられてきており,全国の自治体病院の7割,国立大学病院の半分が赤字になっていると言います.
診療記録を電子化すること自体にも,それを運用・維持・管理していくことにも病院には予算が必要ですが,導入するための補助金が国や自治体から助成されても,補助金による事業が終了した後の維持・管理に必要な経費をどうするか,と言う問題となり,電子化事業が止まってしまう(=ムダになる)ということがたびたび起こっています.

レセプトのオンライン化の義務化が取り沙汰されていますが,せっかく情報を集めようとしているのに,一方的にただ集めるだけのようで,処方情報の共有化の概念が欠如しています.
処方が電子的に共有化できたら,単に他の医療機関で処方されている薬が一目瞭然になるだけでなく,今から処方しようとする薬との相互作用や重複をチェックできるようになりますから,医療安全面でも大きな効果があります.
また,何らかの薬害が発生した場合にも,誰がその薬をのんでいるのか,のんでいたのかを調べることも容易になります.
こういったことは,1医療機関が電子化しても全く効果はなく,少なくとも医療圏まるごと電子化しなくては機能しません.
抜本的な国の施策の見直しなしには,日本の医療の未来には明るさが見えてこないように思います.

アメリカではアメリカ国内全域での医療情報ネットワーク化のために,2010年の予算で12億ドルを計上するそうで,これには約70ヶ所の医療情報技術センターの設置も含まれており,なかなか本気度が高いようです.
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電子カルテは真正性・見読性・保存性の3原則の保持が義務化されており,さまざまな対策を取られていることが分かったが,このような対策を取れない個人の医院などではどうなっているのか.
命の価値が医療機関によって異なるようなことがないのと同じくらい,情報の価値も大病院だから,診療所だから,という区別はありません.
自家用車を自分で作って乗る人はほとんどいないでしょう.
ブレーキの性能,ハンドルの性能,排気ガス規制,耐衝撃性など,細かな規定をすべてクリアして初めて車検が通り,実使用できるのです.
電子カルテも自家用車と同様に,相性のよいものを選んで買って使うのが一般的な考え方になると思います.


カルテを改竄しても証拠が残らないのではないか.
改竄を許すシステムは『真正性』が担保できていませんから,診療録の電子保存の条件が満たされません.従って,逆説的ですが,改竄の証拠が残らない電子カルテシステムというものはあり得ないことになります.
たとえば,ファイルメーカーという,医療関係者にも大人気のデータベースソフトウェアがありますが,データを変更した記録が残らないため,診療録の電子保存としては認められない,ということになります.
ただ,利便性は悪くなりますが,PDFファイルとして保存し直し,それを診療録の原本とすることで電子保存の条件をクリアできる可能性はありますので,ファイルメーカーはまるで使えない,ということではありません.

なお,単に書き直せないようにしておきさえすればよいか,というとそうでもありません.
たとえ単なる誤変換で,本来の意味は容易に類推できても訂正できないと,カルテ開示のときにとても嫌な感じになるかもしれません.(例: 体死亡率,やくざ医師)

ところが,『冠動脈』『肝動脈』,『肝細胞』『幹細胞』,『抜歯』『抜糸』など,文脈ではどちらなのか判断できない可能性のある同音異義語もあります.
あるいは,本人の勘違いや覚え違いなどで,病歴や症状を後から修正しなければならない事態も発生するわけですが,改竄防止のために一切修正を加えることができないシステムでは,誤った情報が残り,それによって誤った判断がなされる危険性を有してしまいます.
そこで,修正履歴がすべて残り,誰がいつ何をどう変更したのか,が記録される機能が求められることになるわけです.


ウイルス対策は万全なのか.
逆説的,かつ否定的な答えになりますが,何事にも『対策は万全』ということはありえない,ということを理解しておかないと万全な対策にはなりません.
万全な対策とは,感染しないことのみに注力するのではなくて,どんなに予防しても防ぎ切れないことがあり,感染しても被害が最小限に留まり,業務が停止するような被害を被らない,という何段階もの,ありとあらゆる場面を想定した対処方法を考えて明文化し,実行できるようにしておくことになります.
これは,ヒトの感染対策と全く同じです.


『なりすまし』等に対する対策をきちんとすることが大切なのだと思いました.
一番の対策は,コンピュータを使用する全ての人が何をするべきか,何をすべきでないのかを理解し,実際に正しい立ち振る舞いをすることです.


久留米大学病院で働いている先輩に聞いたが,大学病院では,現在,部署によって,アナログ方式,デジタル方式が入り混じっていて,たいへん面倒だと言っていた.
オーダーの変更も直接他の部署に行って自筆でサインをする必要があるらしい.
アナログ方式・デジタル方式とは,どういう概念なのか理解できていませんが,一般に,中途半端なコンピュータの導入は運用を複雑にすることがあります.
特に処方箋は,紙運用することしか念頭に置いていない法律の下に運用されていますから,本来原本はコンピュータのデータのはずなのに,印刷された瞬間から印刷された処方箋が原本として一人歩きし始めます.
コンピュータが世の中になかったころの法律は,いろいろなところに不都合を生じさせているのではないでしょうか.


データの流出に関しての対策は.
自動的に流出するような仕組みにはなっていませんから,データが流出したら,それは必ず流出させた人がいる,ということを意味します.
大学の信用を失墜させる行為ですので徹底的に調査して,再販を防止するためにうやむやにすることはなく,流出に関与した人は厳しく罰せられます.
処分は職員の場合は解雇,学生の場合は退学となる場合もあり得ます.


パソコンの情報処理は仕事の能率を飛躍的に向上させたと思うが,その反面,どこに繋がっているか分からない為,外部への情報の漏洩には注意を払う必要があると思う.
どこにつながっているか分からないところで仕事をしてはいけません.


入力ミスに対する防御システムなどがあるのだろうか.
前回と同じ処方を出す,前回と同じ検査項目の採血を行うなどの繰り返し同じことを行うことや,組み合わせに問題のある薬を処方しようとすると警告を出すなど,決まりきった処理はコンピュータの得意とするところですが,人間の思考(勘違いや思考力の低下)にまで立ち入るようなシステムは未だ開発されていません.


インターネットでは様々な人が様々な情報を発信しておりその真偽を見極めなければならない.情報の全てを鵜呑みにするのはとても危険なことだ.
その通りだと思います.
インターネットは誰でも情報発信できるということは,いくらでもデマを流すこともできる,という意味でもあることはしっかり認識しておいて損はないと思います.
一方,国家の方針に合致しないページは検索できないようにすることもできるようですし,情報は誰かがコントロールしているかもしれない,と考えていた方が安全ではないでしょうか.


一生涯一カルテが実現する時代も近いと思った.
理想は『死ぬまで使える母子手帳』と考えています.
疾患の記録だけでなく,予防接種や定期健診の記録まですべて記録された『健康手帳一生版』です.
10年以上前から提唱していましたが,夢物語でもなんでもなく,ヨーロッパではすでにEHR(electric health record)つまり,診療録ではなく電子健康録と呼ばれ,普及し始めています.
日本では,維持費を誰が負担するのか,情報の管理責任は取れるのか,という極めて基本的な部分でつまずいていて,なかなか発展の端緒すら見えていない状況です.


高齢の医師などには今から使い慣れていないパソコンを使いこなすのは難しいと言うことを以前聞いたことがあるのでどのように移行していくのかが気になった.
地区医師会はファックスで診療所に通達を送っていますが,最近は『日本医師会のホームページを参照してください』が増えています.
駅に行けば切符は自動販売機で買わなければなりませんし,改札でも切符を適切な場所に入れないといけません.
銀行に行ってもATMで振り込んでください,と言われる時代です.
また,田舎ほど何歳になっても自家用車を運転しないことには生活ができなかったりします.
自家用車の仕組みを知らなくても運転ができるように,『使いこなす』まで精通しなくても使えるレベルまでは誰でも到達できないと,生活ができないのです.
使い易さ(迷いにくさ,間違えにくさ)はシステム設計の重要課題なのですが,システム発注者がそれを理解していないとユーザーは大変な目に逢うことになるでしょう.
受注者は発注者の意図したとおりに作るのが仕事であって,使い易いように工夫することは,受注の項目に入っていなかったらやる必要はない(≒やってはいけない.なぜなら,別料金を請求できる)からです.


個人病院も電子カルテが使われているようになっているとは知らなかった.すべてパソコン入力で,ドクターは一生懸命画面を見ていて少し違和感を感じた.
患者さんはドクターが患者さんが目の前にいないときには何をしているのか知りません.
患者さんのデータを見て診察所見や問診と合わせて,いったい何が起こっているのか考え,文献を調べ,他のドクターと相談をして治療方針を考えているかもしれませんし,さまざまな書類を作成しているかもしれません.
患者さんは自分が書いてもらう書類(各種診断書,入院診療計画書,検査や手術の説明書など)しか知りませんが,診療録以外にも,画像検査や手術の申込書,症例検討会に出す資料,検査や手術の所見,退院時要約は常に書かねばなりません.
場合によっては,保険者に対する高額治療の説明,ケースレポートなど,意外とデスクワークが多いのです.
もちろん,診察中に患者さんがそこにいるのにもかかわらず違う方ばかり見ているのは,テレビゲームに興じている子どものように大変腹立たしい存在として見えることでしょう.
失礼な態度は信頼関係を損ねる原因となりますので,診察中のコンピュータ操作が患者さんの目にどのように映っているのか,時々確かめるくらいの心の余裕がほしいものです.
また,コンピュータの画面自体が患者さんとの情報共有の場となるような発想で設計しないといけない,とも言えるわけです.
紙カルテでできることをそのまま電子化したのでは情報共有ツールとしてのコンピュータの良さが生かし切れないのです.


今日の講義を聴いていかにカルテというものが重要なものであり,その取り扱いにおいては非常に注意しなければならないということを認識させられた.
『担当医でないので分かりません.』『担当医がいないので分かりません.』
そんなことを言っていたら,担当医が怪我や病気で入院したらどうなるのでしょう.
どんなに気をつけて病気にならないようにしていても,災害や事故に巻き込まれる可能性は誰にだってあるのです.
主治医の代替がいくらでも利くような診療録を残すことが医師の責任です.
研修医になったとき,診療録を書くことが医師の仕事,と言ってもよいくらいだ,と指導医から言われたことがあります.
実際,何をやったか,何をやらなかったかは,書かれている事のみが事実として認定されるわけですから.


テクノロジーが進むにつれて,情報の処理も容易になってきている.その一方で今まで考えられなかったような流出方法もあがってきている.
『情報』と聞くと『流出』を連想する人が多いように思いますが,我々が銀行に預けている預金はどんな場合に流出するのかを考えてみましょう.
我々が銀行に預けているのは1枚1枚固有の番号が印刷されているお札そのものではありません.
その金額を情報化して記録し,全国どこのATMからも操作できるようになっているわけで,情報とか流出とかを考えるのにイメージしやすいのではないでしょうか.
預金の一部または全部が流出するのはどんな場合でしょうか.
キャッシュカードを持っている人物(自分とは限らない)がATMで操作をしたときがほとんどであって,ATMを使わずにオンラインで引き出されるとしたら,間違いなく現役の銀行員の犯行でしょう.
銀行員以外のどこかの誰かがこっそりと引き出していくというようなことは起こっていないはずです.
ATMを操作するには,あなたの設定したパスワードを知らなければなりませんから,ATMはあなたが操作したのでなければ,キャッシュカードかそのコピーを持っている人物はあなたのパスワードを知っていた,ということになります.
前者は振り込め詐欺ですし,後者の場合は,あなたがパスワードを流出させたに違いありません.
つまり,情報の流出が起こる場合,その原因は,関係者がセキュリティーに穴を開けるか,関係者の犯行ということです.
なお,『今まで考えられなかった』ことであっても,システムを設計する際にはすべてを把握しておかねばなりません.
後で見つかった場合,『セキュリティーホール』と言われるわけですが,見つかりさえすれば対策を取ることができるわけです.


いつか病気の人間を検査や問診シート(アンケート)のような物で料理のレシピのように,機械が全て判断し薬を出し,医療人の不用な社会が到来するのだろうか.
医療を知れば知るほど,それがなかなか難しい相談であることが分かってくると思います.
病気や病態を診断する場合,陽性所見だけではなく,陰性所見も大切です.
いくつかの疾患を疑う所までは比較的容易ですが,症状は似ているが,全く違う病気で治療方針も全く異なる,というのはいくらでもあるわけで,それを鑑別するにはアンケート方式ではそうとう苦労すると思います.
長大なアンケートに答えられる時間と体力と根気があれば可能かもしれませんが,病気の勢いが強いときほど,そのようなことはできません.
医療人は世間で考えられているよりも高度な判断を瞬時に行っています.
それは,データ処理の積み重ねというよりもパターン認識による条件反射という,経験がものを言う世界だったりします.
ただ,その精度は100%であるはずもなく,ましてやパターン認識もできない(診断できない)場合には診断できそうな人に回すか,自分しかいない場合には賭けのようなことをやるしかなくなります.
結果が悪かったことを理由に責められるような時代になってしまいましたので,責任の持てる範囲,すなわち,パターン認識ができる患者さんしか引き受けることができなくなってきています.
医師になってすぐは,全てが見たこともない種類の病気ですし,その後も経験値に依存しつつ診断し治療できる病気のパターンが増えていくだけで,全ての病気を診ることができるようにはなりません.
医療が高度化したということは病名が増えたのと同じことですから,昔に比べ,たくさんの医師がいないと全ての病気を網羅することが難しくなってきているとも言えます.
ロジックではなくてパターンで認識できるようなロボットが出てくるまでは,ますますたくさんの医療人が必要になるでしょう.


国民が一人一人番号を持ってコンピュータ上のデータで管理されていれば年金だって消えることはなかったのではないかと思う.
コンピュータが導入されたる頃は,黒船の到来の再来か,というほどの大騒ぎになりました.
労働組合は機械化されることは解雇につながると反対しましたし,競馬で勝ったのが国税局の知るところとなり課税することも可能になるので増税になる,人に番号を付けてモノ扱いするのか,という感情論もあり,当時の野党とマスコミの『国民総背番号制反対』にて世論が動き,大きな制約を付けてのコンピュータ導入となりました.
当時は全国規模の大量のデータを整理した経験は誰にもなく,名前,性別,誕生日,住所で名寄せができると信じられていました.
実際,郵便は名前と住所で届くわけですから.
このため,社会保険庁では年金記録を,ID番号を振らずにデータ入力を行う,という,記録はできても,姓が変わったり住所が変わったりすると,いざ名寄せしようとしてもうまくいくとは思えないやりかたでコンピュータ入力を行うこととなったのです.

槍玉に上がった社会保険庁の体質ですが,問題となった発端はコンピュータをわけの分からない脅威として排除すべく大キャンペーンを張ったマスコミにもその責任の一翼があると思うのですが,このあたりのいきさつを説明したテレビ番組は見たことがありません.
マスコミはすべての情報を教えてくれるわけでもなく,思想に左右されない報道がなされているわけではないことを知らなければなりません.
テレビが無料で見られるのも,新聞が安い値段で読めるのも,すべて広告料のおかげです.
中国のテレビや新聞には反政府的な番組や記事が出ないことは有名ですが,わが国でも広告主が広告を引き上げるような論調の番組や記事はお目にかかれないもの,と考えておくくらいの用心は必要でしょう.

もちろん,社会保険庁にも大きな問題がありました.
それは,IDを振らなかっただけではなく,昭和54年に氏名のカタカナ入力を開始した際に,それまで漢字はコード化されていたのに,それをあえてカタカナにしたため,実際の読みとは異なるものとなってしまったことです.
    社会保険庁の誤入力問題、主犯は「カナ変換ソフト」か

ちなみに年金の現在のデータ管理ですが,『基礎年金番号』なるものが振られ,年金記録の統合が図られています.
ところが,『ねんきん特別便』を郵送するためには最新の住所データが必要になるわけですが,これは住民基本台帳ネットワークの参照が必要になるため,両者の番号のヒモ付けが必要になり,新たなデータベースの構築が必要になりました.

このように,番号がいくつもあると,それぞれをヒモづけるデータベースシステムが必要になりますので,次々に産業を生み出して行く(景気対策)には都合がよいためか,なかなか1つの国民番号を付けよう,という動きは見えていません.



【2週目】
世界最高水準の長寿国家であり,医療水準も高く,高齢の医師でもバリバリ働いているので医師を増やす必要はない.


医者が足りないとしきりに言われているが,医学部の定員を増やす前に医師不足地域に定期的に医師を派遣する制度などを国が整備していくことの方が大切なのではないか.


科の偏在を無くすために,外科何人,内科何人と決めればよいのではないだろうか.
傍目には,これだけ長寿なのだから,これ以上医療水準が上がる必要もなく,むしろ少々医療水準が下がっても大きな問題はなかろう,と思えてもしかたがないかもしれません.
病院勤務の医師は一般の想像をはるかに超えた,いや,むしろ,信じられないような,と表現した方がよいくらいのギリギリ精一杯のところで医療を支えている結果として,今の医療水準が確保されているのです.

船やトラックには最大積載重量というものが定められていますが,これを超えたからといってすぐにひっくり返ったりするものではありません.
しかし,まだ大丈夫と思ってどんどん積んでいくと取り返しの付かないことになるのは,東南アジアで繰り返されるフェリー転覆事故を見ての通りです.
英語のことわざに『最後のワラ一本がラクダの背を折る』というのがあります.
限界を超える寸前までは全く気付かず,そこから限界を超えてダメにしてしまうのは,ワラ一本という,ほんのわずかなことなのです.

人口当たりの医師数を見ると日本はOECD(経済協力開発機構30ヶ国.ヨーロッパ諸国+北アメリカ+オセアニア+韓国,日本.要するに先進国+α)平均の3分の2の医師数しかいませんが,OECD平均より多い欧米では医師の半数か半数近くが女性であるのに対し,日本では5分の4は男性医師です.
男女別に計算することにどれほど現実的な意味があるか定かではありませんが,試しに計算してみると,日本は人口当たりOECD平均の15分の16倍の割合の男性医師がいることになります.
つまり,男性に限ってみれば医師不足はなく,欧米に比べわが国で不足しているのは女性医師というわけです.
しかしながら,現在の研修医の3人に1人は女性ですし,将来的には欧米と同様に女性の比率は半数に近付いていくものと考えるならば,医師の養成数(医学部の定員)を1.5倍にしないと男性医師の絶対数が減って行きます.

診療科の定員や僻地の医療機関への計画配置が提唱されていますが,女性医師の配置をどうするか,という問題だという視点が欠落しています.
医師数を増やさなければ,僻地への単身赴任も,妊娠〜出産〜子育ての期間も,女性医師に救急の現場を含むフルタイムの仕事量を要求するか(そのためには年中無休・24時間営業の託児所の充実では不十分で,最低限でも親代わりをする人が必要でしょう),男性医師にラクダのように背骨が折れないことを祈りながら加重を増やすようなことをするかしかなくなります.

いずれであっても,そういう事態になれば,医療事故が増えることも覚悟しなければならないでしょう.
『何でこんなことで?』というような一見初歩的なミスが繰り返し起こるのは,勤務医が常に道路交通法で言うところの『過労運転』状態で働いていることは無関係ではないはずです.
これがさらに増えるようなことになっては,誰にとっても不幸なことではないでしょうか?
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ところで,医学部の定員を1.5倍にすると医学部の教育の現場に何が起こるでしょうか.

全員を一堂に集めて行う大講義だけで済むのなら全員が着席できる教室がありさえすれば良いわけです.
では,実習はどうでしょうか.
実習は数人のグループで行っていることが多いと思いますが,そのメンバー数を5割り増しにするわけにはいかず,どうしてもグループの数が増えることになるはずです.
臨床医学の実習ではグループごとに教員(=診療科の医師)が必要になりますが,実習を担当する教員は十分にいるのでしょうか.

2004年から始まった臨床研修医制度の募集定員の総数は,医学部の卒業生の数を大きく上回っていました.
研修病院同士を競い合わせ,研修のレベルを上げる,というのがその狙いであったと聞きますが,大方の不安通り,都会の病院に研修医が集まり,地方の大学病院で初期臨床研修を行う研修医は少数となってしまいました.
これは,地方の大学病院の研修プログラムに魅力がなかったからだろう,と切り捨ててしまえるものではありません.

初期臨床研修医は主治医にもなれなければ1人で当直もさせられませんので,大学病院では他院に出向していた医師を呼び戻し指導医とするしかありませんでした.
これは『医師の引き上げ』とマスコミは大学の医局を叩きましたが,研修医制度の制度設計に従うためには,そうする以外に方法はなかったのです.
この結果,多くの自治体病院では医師の定員割れ,診療科目の休止に追い込まれ,挙げ句の果てには入院をとりやめたり,身売りしたり,閉院となってしまった病院も出てきたのはご存じの通りです.

厚生労働省では予てから病床数を減らす目標を立てていましたので,臨床研修医制度の導入による自治体病院の入院のとりやめや閉院は政策ミスでもなんでもないのかもしれません.

臨床研修医制度は2年間は研修に専念するという制度のため,医局は2年間入局者がなかった上に,その後も大都市の医学部以外では入局者数が低迷しているところが多いのが現状です.
医局の医師は医学部の教員と大学病院の医師と研究室の研究員を兼務していますから,少ない教員が定員の増えた医学部教育を行うようなことになれば,業務量の多さに疲弊し,正常な脳の状態ではなくなるかもしれませんし,家族からは仕事と家庭とどちらを取るのか,と選択を迫られることにすらなりかねません.
医学部の定員を増加させるに当たり,教員数が十分確保できない大学病院には医師を補充しないことには,医学教育も満足に行えないばかりか,一気に崩壊してしまう可能性もあるのです.

臨床研修医制度のもう一つの問題は,2年間の研修期間中はアルバイトを禁じられていますので,他院の当直には行けなくなった,ということです.
このため,元々若い医師が日替わりで当直を支えていたような中小病院に中堅の医師が当直に派遣され,都会では夜間や休日に急患の依頼があっても『医師不在』で断らざるを得ない事態の一因となりました.

僻地に初期研修が終わったばかりの医師を割り振るという提案には,女性医師が増えていく中でうまくいくのか,という問題の他にも,医師の能力を磨くことができなくなるのではないか,という心配があります.
日本の医師免許の制度はいきなり本免許が取れるシステムですが,初期研修医の臨床能力は医学部医学科6年生と何ら変わらないわけですから,自動車の免許で言えばほとんど仮免許の状態ですので,指導医はしょっちゅう目をかけていないといけません.
臨床研修医制度はその期間を通して医師見習いとして研修するような制度設計ですので,テレビドラマのように,30歳にもならないような若い医師が自信を持ってバリバリ活躍するようなことはなく,『無知の知』が分かるまで,先輩医師の仕事から学び取っていかなければ,恐くて1人では何もできないのが現実です.

初期臨床研修が終わったばかりの,主治医をしたことのない研修医が僻地の病院に来るのですから,その病院では指導医となる医師の仕事は,医局から医師が派遣されていた時よりも多くなることが懸念されます.
指導医は自分の仕事以外に研修医の指導までしなければならないため,よっぽどヒマな医療機関でもない限り,足手まといと感じられるような事態に陥る可能性は十分にあり,臨床レベルを保つために指導医はますます過労とストレスがうっ積する状態になることが心配されます.
そういう状況では,研修医も十分な指導が受けられるとは思えませんし,独学で医業ができるほど現代医学は甘くありません.
研修医は独り立ちできるまでしっかりと指導を受けられる施設で臨床経験を積まなければ,本人にとっても,指導医にとっても,そして何よりも患者さんにとって,非常に不幸なことになるのです.

元々医局制度の下,大学医学部の講座は僻地に医師を割り振っていたのですが,研修医制度をきっかけに大学病院には研修医が残らなくなり,医局の医師派遣機能は失われました.
では,都会の私立の病院に就職した研修医を僻地に派遣するようにするのでしょうか.
本来院長が持つ人事権ですが,それを『医師配置を行う公的機関』がコントロールするのでしょうか.
外部の公的機関が私企業の社員の人事権をコントロールする!?
これではもはや,医師は奴隷扱いですね.

ドイツやイギリスでは医師が計画配置されているとテレビで取り上げられたことがありましたが,これはそもそも研修医の話ではなく,開業の話ですし,診療科ごとの定数を決めることによって無医村をなくすと同時に医師は安定した生活が手に入るような制度設計になっているのであって,むしろ,医師主導で設計されたギルド的な発想から出発しているように思いました.

診療科ごとの定員を決めるより前に,大学病院と市中病院・公立病院をセットにした研修システムへの改変,無過失補償制度の整備,医療事務職の増員を可能にする診療報酬の大幅増額,子どもを見てもらえる社会的なしくみを整えるなど,先に解決しなければならない問題は山積みです.
働きやすい環境が整っておれば,医師が多すぎてやっていけそうにないと思われる診療科は敬遠され,自然と診療科間のバランスがとれてくるのではないかと思いますし,若いうちは僻地でも離島にでも行ってみたいと思う冒険好きの医師は少なくないと思いますが,それは,しっかりと研修を受け,自信がついたらの話ではないでしょうか.

環境整備のことですが,病院内に24時間営業の託児所を完備させるより,『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』や『コボちゃん』のように3世代が一緒に暮らすのが当たり前になれば,医療従事者は安心して働くことができ,次世代を担う子どもの情操教育にも良いのではないかと思います.
これは医療職に限らず,社会全般の強力な子育て支援策になるはずですし,おじいちゃんおばあちゃんも呆けたり体力が衰えたりする暇もなくなるのではないでしょうか.

日本の医療の現状を見ると,まだ立ち直れる余力があるのか,point of no return を超えてしまったのではないか,と空恐ろしくなります.
医師もまた,いつでも患者になりうる,一介の国民なのですから.

なお,野口英世のように研究一筋でやっていくことができる医師,基礎医学を生涯の生業として志す医師が日本には極めて少ないことは,この分野への政府の予算配分の少なさもさることながら,医師不足も大きく影響しているものと思われます.
患者さんを直接診るばかりが医師の仕事ではないのです.
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医師不足に至った過程が分かりやすかった.
赤ひげの時代には1人の医師が全部診ていたのがたくさんの専門科に分化し,1人の患者さんを何人もの医師が診ている状態になりました.
また,テレビに『神の手』と紹介されるような特殊な手術が得意な医師はそればかりをやることになりますので,『カリスマ医師』が出てくれば来るほどたくさんの医師が必要になっていくのです.


医師不足の件については,もう少し社会全体が医療について知ってくれたら医療従事者は働きやすいのではないか.
忙しい医療の現場にいる医師は業務に忙殺され,窮状を社会に訴えることができません.
また,不可能と思われるような業務量をこなしていることに対して高揚感を感じることすらあり(マゾヒズムかも),窮状ではなく自慢話として語ってしまうことも多々あることが社会問題化しにくい原因なのかもしれません.

イギリスではブレア首相は就任時にこう語りました.
"Ask me my three main priorities for government and I tell you education, education, and education."
『優先順位の高い3つの主要な施政は何かと尋ねられたら,私は,教育,教育,そして教育だ,と申し上げる.』

行政としては教育,一般市民としては知ることについて,もっと関心を持つようになると,医療や介護は社会の発展を妨げるお荷物なんかではなく,社会的にも産業的にも大切な基盤になることが理解されるようになると思います.


他の国と比較して日本の医師数が少ないのはよく分かった.教育費も低いというのは意外だった.他にも問題はいろいろとあると思うが,このような状態が少しずつでも改善されるようになればよいと思う.
教育の機会を得るのも金次第,という社会だと,貧困から脱却することができにくくなります.
優れた素質があるのに貧困のために社会に出ることができなければ,公共の損失です.
教育に国が金をかけることは,株式投資を人に対して行うようなことです.
投資が少な過ぎれば潰れてしまうし,潤沢だと業績は上がる可能性がありますし,業績が上がれば投資した価値があると言うものです.


医師不足に至った過程が分かりやすかった.
アカヒゲの時代には1人の医師が全部診ていたのがたくさんの専門科に分化し,1人の患者さんを何人もの医師が診ている状態になりました.
また,テレビに『神の手』と紹介されるような特殊な手術が得意な医師はそればかりをやることになりますので,『カリスマ医師』が出てくれば来るほどたくさんの医師が必要になっていくのです.


医師の入力ミスで間違った処方箋が出された場合,薬剤部でそのミスを防げるシステムになっているのでしょうか.
薬剤師は処方箋に疑問を感じたら処方を出した医師に対して『疑義照会』をして確認を取ることが大切な業務の1つです.
この法律に基づいた正当な薬剤師の業務に対して,『オレの処方にケチを付けやがって!』と憤る医師がいると,疑義照会のハードルが上がってしまい,『おかしいかも』レベルはチェックがないのと同じことになってしまいます.
医師は,みんなが自分を支えてくれているから安全な業務ができているのですから,良好な人間関係を構築することは極めて大切なことです.


よく使う薬が使用率順にリストができたら処方ミスが減るのではないか.
ミスを起こしそうになった状況や,投与される前に発覚したミスを含め,どういう状況でどういうミスが起こるのか,些細に分析されています.
医療の現場ではそれらを踏まえ,最大限の対策を講じているはずなのですが,それでも医師が誤った処方をしてしまう事例は繰り返されています.
そこで,似た名前の薬を病院に置かないようにする,という工夫がなされることがありますが,必ずしもそれでうまくいくとは限りません.
  参考: サクシゾン⇒サクシン事件

処方のコンピュータ入力自体に誤りがあった場合,たとえば,違う患者さんに処方してしまうとか,思っていたのとは異なる薬品名をリストから選択してしまったりとかしたときに,誰がどうやって気づくのか,人は誤るものだ,と常々思っておかないと,取り返しの付かないことになってしまいます.
医師の誤りをコンピュータが指摘できなくても薬剤師が見つけて医師に知らせれば誤った処方は防げます.
投与するまでの間で誰かが気づけば,実害は防げる可能性があります.

法的には医師の指示は絶対のような位置付けになっており,最終的な責任は医師が取らねばならなくなりますが,さまざまな人々の働きがあって初めて医療は成り立っているのですから,犯人捜しを旨とする刑事裁判で医療を裁くのが正しいやり方なのかどうか,弁護士の間でも意見が分かれているくらいです.


法律に関係したことも学び,ちゃんとした医師になっていきたい.
医師法,医療法だけでなく,国会審議を経ない厚生労働省の通達は法律と同等の効力を持っています.
たとえば,診療録の電子保存の三原則も厚生省の通達でした.

最近の新型インフルエンザへの対応方法などは気をつけておかないとどんどん情報が更新されていきますので,患者さんの方向ばかりを見ていては通達とは異なる立ち振る舞いをしてしまっているかもしれません.
これは,サッカーのオフサイドトラップのようなもので,忙しく医療に没頭していると,知らぬ間に違法状態に陥る可能性がある,ということです.

もうひとつ考えておかなければならないのは,医師法17条のことです.
    『医師でなければ、医業をなしてはならない。』
一見,当たり前のように見える,さらっとした条文ですが,世界の常識では『医業』とは『医療をなすことで生活の糧とすること』ですが,日本では,ひとつひとつの医療行為自体を医業と解釈しています.
このため,日本では医学部の学生のうちに医療行為の実習を何一つすることができず,医師国家試験に合格してから(本来は学生のうちに習熟しておくべき)初期臨床研修を行わなければならなくなっているのです.

それと,日本の医療の問題は,医学教育と医学研究,大学院は文部科学省,病院は厚生労働省,救急搬送は総務省,医療機器産業や電子カルテは経済産業省と,4つの省庁が関与し,病院の建築に際しては医療法(厚生労働省)だけでなく建築基準法(国土交通省)も関与しますので,縦割り行政がもろに影響することにあります.
救急患者の搬送先がなかなか決まらず救急車が立ち往生する問題ではマスコミはひたすら病院の問題として取り上げていますが,救急搬送は消防庁の仕事ですから,総務省の管轄です.

各病院の空床状況を表示するシステムは経済産業省の事業でしたから,2008年11月に脳血管障害を発症した妊婦の救急搬送がうまくできなかった問題で舛添要一厚生労働大臣が二階俊博経済産業大臣に面会に訪れ『お医者さん同士のコミュニケーションがうまくいっていない.IT技術を活用した形で,両省で協力しながら国民のためになる仕事をしたい』と持ちかけたのに対して二階大臣は『政治の立場で申し上げるなら、何よりも医者のモラルの問題だと思いますよ.忙しいだの,人が足りないだのというのは言い訳にすぎない』と答え,舛添大臣が絶句する,という会談が報じられました
『モラル』を翻訳するならば,経済産業省的には,救急の現場の医者は治療よりも空床状況の入力を優先すべきだ,せっかくわが省が予算を付けて入れたシステムなのに,ちゃんと活用していないのはけしからん,と現場が全く分かっていない机上の空論で政策が決められているという現状や縦割り行政のやるせなさを非常に分かりやすく示してくれました.

なお,救急搬送もドクターヘリになると,更に国土交通省も関係してきます.

帝京大学名誉教授の大村昭人先生は,このような縦割り行政の弊害を無くすために医療庁の設置を提案されています.


なんとなく工学部的な内容であったが,このようなことは国家試験に出るのか?
医学教育モデル・コアカリキュラム教育内容ガイドラインで言えば
F 医学・医療と社会
(5)診療情報
一般目標:
医療情報の利用方法、情報管理とプライバシー保護について学ぶ。
到達目標:
1)情報管理の原則(情報公開、プライバシー保護、取り扱い倫理、セキュリティー)を説明できる。
2)医療で扱う診療諸記録の種類を説明できる。
3)診療録の特徴と要件を列挙できる。
△4)電子化された診療情報の作成と管理を概説できる。』
に該当します.
医療はマクロな生命現象だけをみているだけではなく,その探求にはあらゆる科学分野の知識と技術が基礎となります.
他の職種との情報交換の場としての診療録を書くことや,病状を患者さんや家族に理解できるように説明することなどは,他の自然科学分野とは異なった能力が求められますし,心理学,社会学,環境学,文化人類学といった,いわゆる文系の学問分野の領域とも重なっています.
医師国家試験は医学に関する知識の有無を見るものであり,医療のほんの一部にしか過ぎませんから,国家試験に出る知識だけしかない状態で卒業すると誰にとっても不幸なことになると思います.


情報の伝達を正確にし,全ての情報を鵜呑みにしてはいけないと思った.
『群盲象を評す』という仏教説話があります.
全体像を知らずに手探りで得た情報は偏りがあることを自覚しないと,他の人が得た情報は間違っていると思い込み,全体像を理解することができない,という話です.
人体や生命現象は,その設計図もありませんし,分かっていないことはまだまだたくさんあるはずです.
常識はあっという間にひっくり返ります.
2千年以上も前にヒポクラテスも言っています.
    経験は欺く,判断は難しい.


医療機器が発達して情報が電子化していく中で一番注意すべきは情報の流出の危険性だ.
情報が情報であるためには,誰かが誰かに伝える目的があるわけで,伝わる前に消えてしまったら情報ではありません.
あらかじめ意図していた相手意外に伝わった場合を『流出』と言うわけですが,流出をさせるのは機器のせいではなく,それを使う人間だ,ということを自覚しておかねばなりません.
利便性と隠匿性をバランスさせ,どれだけ想定外を無くしていくか,すべて人間の仕事です.


裁判の話を聞いて,そんなにもカルテが重要なんだということを思い知らされた.
アリバイの認定と全く同じです.
どんなにその日時にはどこで何をやっていたと主張しても,それを証明してくれる第三者がいなければ,アリバイは成立しません.
診療録も同じことです.
記録されていることのみが事実として認定される.
書かれていないことは,やっていないことと同じ.
診療の記録を残すということは,自分で自分のアリバイを作っているようなものなのかもしれません.
自分にも役立つ情報になるのですから,しっかり記録は残しておくことが大切です.


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