久留米大学医学部 医学科4年 医療科学
〜医療情報処理法について〜
質問と意見 2010年

久留米大学病院情報部 和田豊郁

2年前にも同じような授業を受けたけど,いろいろと勉強した上で今日改めて授業を受けてみるとよりわかりやすかった.

知識がないとわかり得ないことも多いものです.
そして,不十分な理解だと妙なことにだまされてしまうことも多いものです.
カルシウムを補うために牛乳を飲むことは効果があるとされていますが『高齢者になると関節の成分であるヒアルロン酸やコラーゲンが減少するのでサプリメントを食べて補いましょう』みたいなことは,どうなのでしょうか.
鉄やカルシウムや亜鉛などの金属は吸収されやすい条件さえ整っておれば消化管から生体内に取り込まれ,必要に応じて利用されますが,食べたタンパク質は必ず分解され,吸収されるときには20種類のアミノ酸のどれかとなり,食べたときのタンパク質に再び合成されるかどうかは分からないのです.
食べたタンパク質がそのまま生体で利用されるとか,再合成されるならば,髪の毛を食べれば禿が治り,牛乳を飲んだら牛になる,という理屈になってしまいますが,そのような現象は認められていません.
このような患者さんの迷いも解消していかなければならないのが医師の務めの一つだと思います.

普段の基礎・臨床の授業とは違い,情報についての授業は新鮮で,とても興味深いものだった.

大局的に考えれば,『違い』はないことに気づくと思います.
ありとあらゆる『基礎・診療の授業』の元となっているもの全てが医療情報なのですから.
『情報学』では結果のところだけでなく,経過も見ているだけです.
常に別の視点から見る習慣を持つことは自分のやっていることが正しいのか,少なくとも問題はないのかに気付くためのアプローチとしてとても重要なことです.

診療録の保存期間が,診療が終了してから5年間というのを初めて知り,5年間という数はどうやって出てきたのかが気になりました.

昔は病気と言えば感染症でしたから,5年も再発しなければ治癒した,とみなされていたわけです.
現在では,忘れた頃に再発する癌とか,健康診断で異常を指摘されながらも放置して後に疾病を発症,というようなことが増えてきていますから,5年でよいのか,という意見はあります.
実際,B型肝炎訴訟では,17年前の診療録提示が求められるなど,以前では考えられなかったほどの長期を経て発症する疾病もあることが分かってきました.
しかし,診療録保存にはコストが発生します.
急性感染症主体であれば,5年くらいは医療機関は保存できるだろう,という感覚ではなかったか,と思います.
しかし,疾病構造が変化し,悪性疾患,高血圧症,糖尿病,脳卒中といった,発症したら一生受診を続けるような疾患が増えたため,診療終了後5年間の保存,とは,生前の何十年もの間の診療録を死後5年間保存することとなり,医療機関に重い負荷になりつつあります.
診療録は誰のものか,ということがしばしば問題になりますが,医師法上,医療機関の長が保管しなければならないとなっており,書かれている内容は患者のことであっても,診療録は医療機関に所属するものとされています.
診療録が電子化されると,診療録の記述内容を医療機関と患者が共有することは無理にしても,患者が複製を持つことは可能になります.
その際,どちらが原本でどちらが複製か,と問われる事がありますが,デジタルデータの特性として,複製は全く原本と同じである,という性質がありますので,そのような質問は不毛です.

電子カルテの使用により医療ミスが減らせるという考えは持っていなかったのでなるほどと思った.

人間はミスを起こすもの.
ならば,どうやってそのミスが起こる可能性を減らせるのか.
そこで登場するのがキカイによる補助です.
思えば,ATMによる預金の引き落としや預け入れ,送金など,間違いが起こりにくいという特性を利用してキカイが利用されているわけです.
前回と同じ処方を出すのに,書き写していたのでは,ある割合でミスが生じます.
たとえば,処方箋を書いている側から患者さんが話しかけてきて応答していると結構間違えますが,コンピュータを用いると,前回処方を丸ごとコピーするだけなら,人違いさえしなければ正しく処方できます.
また,処方の重複や,同時投与禁忌薬や,薬剤アレルギー歴に登録された薬剤を処方しようとしたときなどにはチェックを入れることもできます. 自分の出した過去の処方だけではなく,他の診療科で処方されている処方との相互作用のチェックも可能になります.

チーム医療が行われていて,誰かが関与すれば,新たな情報が書き加わっていく,どこからでも参照できる診療録を使用するということは,どのメンバーも常に最新情報をもとに最良のプランを考えているという安心感があります. 診療録がそうではない場合のチーム医療は,根拠のない一般論や行き当たりばったりのプランとなってしまう可能性が増え,安全な医療が脅かされる可能性すらあります.
常に他の人のチェックが入るというシステムは,医療ミスを未然に防ぐことに一翼を担うはずです.

カルテは,チーム医療の真ん中にあるという先生の言葉に驚いた.
今まで,現代のチーム医療においては,医師が先頭となって,その患者さんにとって,最善の治療を導き出すものだと教えられていたからだ.
今日の講義で,チーム医療のリーダーは医師ではないとおっしゃった.
医師はチーム医療の構成員に過ぎず,リーダーは他の誰かである.
それは,一番患者に近いといえる看護師かもしれない,というご意見だ.
チーム医療のあり方というものについてもう一度考えてみたいと思った.
チーム医療における医師の役割や立場が今は昔と違うということを知った.
カルテは,今の時代,単なる医療の記録ではなくて情報共有ツールであり,個人情報もたくさん載っているものなので,自分の考えていたものと違うことが多いように思われました.

『チーム医療』というフレーズが登場したのは,医師の指示の元にあらゆる医療従事者が動く,という(法律で定められている)ビジネスモデルには無理がある,というところから生まれた,ということを知っておく必要があります.
医師が全知全能であればその指示に従順であることが最良の方法に違いありません.
しかし,現実には,一般市民が我々を医師だと知った場合,二言目には『ご専門は?』と当たり前のようにたずねることを見ても,全知全能の医師などたぶんおらず,少なくとも,その辺にゴロゴロしているわけではないのですが,しかしながら行われる医療水準は,指示をする医師のレベル(知識・経験・その他もろもろ)で決まるのです.
医師も人間である以上,間違いもすれば知らないこともある,すなわち,医師には限界があるわけで,それを補完するにはどうしたらよいのか,ということで言われ出したのが『チーム医療』なのです.
ですから,チーム医療のリーダーとは,『何をしなさい』という指示を出す人ではなくて,誰に仕事を割り振ったらうまくいくのかを判断するのが大きな役目となります.
医療は奥深くなっていますが,本来は広く深く知っている医師ばかりであればよいのでしょうが,人間の能力はそんなに長けておりませんので,どうしても悪い意味での専門医(ある領域しか精通していない)が増えてしまいます.
薬剤の相互作用や食事による影響などは薬剤師に任せた方が医師の負担(説明するためにはしっかりと勉強する必要がある)を減らせるでしょうし,細々した食事療法の相談も栄養士にお願いした方が患者さんは幸せになれるかもしれません.
本来は医師はすべてのことができなければならないのに,それはできない,でも,患者さんには最良のことをしてあげたい,それを実現するために,最良の適材適所を割り振るのがチーム医療のリーダーの役目となるでしょう.
医療の限界が医療自体の限界や,手に入れられる人材の限界ではなく,主治医の限界になってしまうという悲しい事態を打ち破ろうとするのがチーム医療なのです.

情報は変化するものではなく,更新されていくものである,という考え方が目新しく新鮮でした.

講義でも例として天気予報を挙げましたが,ある時点で予報された天気は,新聞などに印刷されてしまったら,その後新たな異なる予報がなされても,その印刷物に変化が生じることはあり得ませんし,誤報だったと謝罪が掲載されることもありません.
1週間前の週間天気予報が結果的にデタラメであったとしても,それを後で書き直すことはでできません.
なぜそのような予報を出したのかを検証し,より精度の高い予報ができるようスキルアップを図る,というのが正しい情報の使い方でしょう.
このことから,過去の診療録に対してどのように対処すればよいかが分かります.
すなわち,書き換えれば改竄となるわけです.
ただし,明らかに誤った情報(患者さんの思い違いや故意についた嘘など)を元に書いたものと見なされるものを後に訂正することと改竄を区別することは第三者的には難しいため,原本の保全と訂正理由の付記を求める(要するに単純な上書きをして過去の記述が消えてしまわないようにする)ことで現実的な対応をするのがよいと思われます.
医療記録の電子保存は,情報は変化しないという原則を守るため,書き換えた記録が残るよう,逐次保存されていくように設計されていなければなりません.
単純に,一度確定したら二度と書き換えられない,という安直な仕組みでは,明らかに誤った記録であってもそれを残すことになり,それが原因となって医療事故につながるかもしれず,採用すべきではありません.

電子カルテは画像もそのまま見れたり,大変便利ですが,改竄防止のためのシステムが現在どうなっているのかが,疑問です.
電子カルテにすることによる情報の漏出は絶対にないと言えるのかという問題である.情報が誤って消えてしまったりしないのかなとも心配である.
膨大な情報がワンクリックで消去されてしまう電子情報の保存における安全性とどう向き合っていくのか考える必要があると思う.

情報は変化しない,更新されていくのみだ,ということをお話しました.
改竄とは情報を後になって過去にさかのぼり変更することに他なりません.
タイムマシンが必要になる操作です.
現実には,過去にさかのぼることはできませんから,常に操作した日時が記録されるようにしておけば,少なくとも改竄の形跡の有無は検証可能となります.
情報は変化しない,更新されていくのみ,を具現化して,原本はそのまま保全され,更新(正当な訂正だけではなく,改竄を企てたこと,消去を含む)が明確に分かるようになっておればよいわけです.
つまり,データは上書きされることはなく,常に新しい情報に置き換わって表示され,必要に応じてそれ以前の情報が提示できるようになっておけばよいわけです.
なお,漏出は,システムの問題ではなく,職員の意識の問題(データの取り扱い方)であることが分かっていますので,人を疑うことは十分やるべきです.
解決方法は,嫌になるくらい,職員教育を徹底することです.

私はコンピューター関係にまだ苦手意識が強いので,頑張って克服しないととんでもないことになって働けなくなる恐れもあるということに気づかされました.

好むと好まざるとに関わらず,誰もが今を生きていくことしかできないのですから,新たなことを覚えることを面倒がる習慣はやめた方がよいと思います.
生まれながらに自転車に乗れる人はいませんし,それどころか,自分の足ででも,転ばずに走れるようになるには生まれてから10年ぐらいかかるものですが,ほとんどの人はそれが辛い思い出ではないはずです.
今どき,飲み物を自動販売機で買ったことがない人はほとんどいないと思います.
お金を入れて,ボタンを押せば飲み物が出てくるわけですが,ちょっとワクワクするくらいです.
駅に行けば券売機が待っていて,傍目にはお金を入れてどれかのボタンを押す,という同じ操作であるにもかかわらず,あのビックリするほどのたくさんのボタンが人をたじろがせ,どこを押せばよいのか分からなくさせてしまうのです.
病院に行けば診察券を自動再来受付機に入れて画面上のボタンを素手の指で触らないといけませんし,会計は自動料金支払機で,今度は診察券を入れるのではなくて,診察券のバーコードをキカイにかざして画面に表示された以上のお金を硬貨と紙幣を別々の口から,しかも硬貨を先に入れなければなりません.
バスに乗るにはICカードをキカイにかざさなければなりませんし,電話もいつの間にか電池がなければ使えないようになり,電話番号を入力するにもダイヤルがボタンとなり,さらにはボタンもなくなりつつあります.
誰も声高に言わないのですが,タッチパネルは手袋をしていては操作できない,という大欠点があるのですが.
このように,現代生活では,新たなキカイ操作を覚え続けないと生活できなくなってきているのです.
苦手意識という言葉は,辞書から消してしまった方が賢明です.

講義を聴いて不安に感じたのは,自分自身がITに疎いということで,いざ自分がデータ保存の責任を持った時にしっかりと漏洩を許さず,なくさず,運用できるかが怖くなりました.
個人情報保護の観点からよりいっそうの情報管理,保護が求められる時代になったのだろうと今日の講義を受けて改めて思った.

データの保守に関しては,必要条件を完璧にクリアすると主張しているシステムを導入し,責任はそのシステムを作ったメーカーが負う,という形にするのが一般的です.
医師は,目の前の患者が幸せになることを考えておればよいのであって,その患者のデータの保守がどうこう,ということを考えるのは,手術中に停電になったらどうしよう,と考えるようなもので,臨床医の仕事ではありません.
任せられることはできるだけ人に任せてしまうことが,自分しかできないことをするためには必要です.
自分で解決できないようなものも,任せられる人を早く見つけて,可及的速やかに任せてしまうことがチーム医療的な解決方法です.
いずれにしても,医師は最終的な責任はとらなければなりませんが,データの保守管理に関しては,自家用車の整備点検と同じく,信頼の置けるプロに任せないと,万全にはなりようがないのではないでしょうか.
何でも仕事を抱え込まないことが大切です.
ただ,交通規則と同じように,決められた運用や規則はその目的を正確に理解した上でしっかり守っていくことは必要ですが.

情報が漏れると,個々人の情報,プライバシーが第三者に行き渡り様々な問題が生じる.
この先,自分が扱うのは多くの患者の個人情報である.
絶対に漏れることがあってはならないし,自覚を持って管理を徹底していきたい.

医療が扱う情報はこの上ないくらいのプライバシーの塊です.
プライバシー中のプライバシーを患者さんと共有することが医療の原点となります.
悪い人がいた場合を想定して,漏れる可能性がある,と漠然と思いながらも,たぶん,そうならないだろう,という認識ならば,医療に関わってはいけません.
漏れてもしかたがないような仕組みになっているか,誰かが故意あるいは過失により漏らしてしまったときに漏れるのです.
なぜならば,可能性があることは,ある確率で必ず現実のものになるからです.
ところで,情報は自然に漏れ出ていくものではありません.
システム的にどんなにセキュリティーを強化しても,ズルをしてそれを迂回するような人がいれば,そこから予定通りではないことが起こりえます.
どんなに運用を厳しく決めていても,このくらい大丈夫,と思って決まりを破る人がセキュリティーホールになります.
『情報漏れ』は情報を扱う人の認識不足や誤った認識が原因となることをよく理解しておかなければなりません.
人は誤りを犯す性質があるのですから.

ペラペラしゃべらない,持ち歩かない,妙に便利なソフトをインストールしない,など,やるべきことは何か,というよりも,やってはいけないことばかり言われがちなのがこの分野の特徴なのかもしれません.
一番大切なのは,管理を徹底しなければならない,という自覚と,それを具現化するための具体的な方策をいろいろ考えることだと思います.

病院の中が機械ばかりが増えるのは労働の質の低下を招くと思う.

機械が何をするものかを正しく理解していないと御説の通りになると思います.
『何をするものか』というのは,正しく作動する条件や,限界も含みます.
現状の多くは,作動条件や限界以内であるかどうかの判断は人が行わなければならないのですが,その環境を整えることが大変すぎればその機械の存在価値はありません.
機械は人間の奴隷的存在と考えておいた方が良く(日本では機械を非常に大切にするが,欧米では奴隷以外の何者でもないと思われているように見える),機械を擬人化するにしても,気持ちよく働けるようにしておけば,最良の結果を出してくれることを期待し,そうでないときには亡き者にしてくれよう,という考えでよいのです.
機械化すれば人がする仕事が減るのではなく,その仕事はしなくてよくなっても,また新たな別の仕事が出てくるものです.
単純作業が減った分,行わなければならない知的作業がたくさん見つかるものです.
知的作業が増えることは労働の質の低下とは言わないように思います.

医療もどんどんオートメーション化,電子化が進み,今後より情報をうまく使う,整理することが求められる.

キカイを入れればどんどん便利になるだけでなく,それによって得られる情報の処理作業がより忙しくなります.
人はいつまでたってもラクチンにならず,より高度な判断能力が求められるようになります.
医師という職種は,元々,患者さんの訴え,患者さんの状況,診察・検査所見,家族や周辺の人からの事情聴取などといったさまざまな医療情報を収集し,何が起こっているのかを考え,最良と思われる治療方針を見いだすのが仕事です.
これは,医療の現場にどんなにキカイが入ってこようが,電子化されようが,ヒポクラテスの時代から同じです.
情報量はそうとう多くなっていますし,知られている病名も何倍も多いのですから,より高い診断能力(情報処理能力)が求められています.

日本の場合,誤診から患者さんが死に至ったり,重篤な後遺症が残った場合には,他の多くの先進国とは異なり,刑事事件として立件されることがある,というおまけまで付いています.
テレビの医療ドラマではスーパードクターが困難な症例でも救命しますし,『神の手』を持つ外科医のドキュメンタリー番組も盛んに放送されていますので,日本の市民意識として,医療は完璧なものというイメージが醸成されている可能性があり,検察審査会法も改正になり,刑事事件として起訴されやすい素地があるものと考えておかねばなりません.
医師となったからには逃げるところはなく,知らなかったでは済まされない情報の取りこぼしが起こらないよう,できるだけの対策を講じることが何より患者さんのためです.

情報化社会において,カルテの電子化は避けては通れない道であると考えられます.しかし,現状において,ITの世界はまだまだ発展途上の段階であり,自分の仕事が忙し過ぎて他のことに手が回らない医師にとって,医療の世界がIT化されるのを受け入れることはなかなか容易ではありません.

医療は情報処理の権化(ごんげ)なのですからIT化されるもされないもありません.
X線CT装置やMRI装置,超音波検査装置,内視鏡など,診断機器はどんどん高度化・高性能化していますし,検体検査項目も増加していますから,医師の判断材料となる医療情報の情報量は飛躍的に増加しています.
高度な医療技術を好む日本では,これらをあえて一切使用しない,という選択枝は,医師には残されていないように思われます.
最近の高性能なX線CT装置では,1mm以下のスライス幅の情報を持ちますので,あえてフィルムに焼き付けるとあっという間に数十枚になり,見るのも場所と時間をとり大変ですが,フィルム代がかさむため,検査をするほど医療機関は損益になるという驚くべきことが起こります.
さらに,フィルムは結構重たいので,保存資料の重量・スペースも大変なことになりますし,前回の検査との比較とか,考えただけで億劫になり,前回の資料を見ることなく診断をしたために誤診につながってしまう,ということにもなりがちです.
これは,患者さんにも,医師にも,病院にも大変不幸なことではないでしょうか.
ある病院の院長先生が,いつかはコンピュータを入れなければならないことは分かっているのだから,後になるほど自分は苦労すると思うので,今導入するんだ,とおっしゃっていたのは10年ほど前のことでした.
情報革命はもはや黎明期などではなく,完全に実運用期に入っています.
後回しにするほど苦労は増えるかもしれないから早く導入するんだ,というのは,この10年間の発展を考えると,極めて正しい判断だったと思います.
成熟するほど,覚えなければならないことは増えますので,竹槍で戦っていた人がいきなり宇宙戦争に駆り出されるようなことになりかねません.
講義では現実世界の裏側を支えるインフラ技術を強調しすぎるきらいがありますが,実際の医療では,便利なところを利用していくだけになってはいけない,ということを知ってほしい,というのが底流に流れていることをご理解いただけると幸いです.

電子カルテを用いている病院に勤めている先輩の話を以前聞く機会があったのだが,いちいち承認することも多いため煩わしく,不便な点も増えたそうだ.

それは,不便ではなくて,本来やらなければならなかったことが,紙では不徹底だったことがあからさまに仕事として目に見えるようになっただけなのかもしれませんし,医療安全のためにミスを未然に防ぐための仕組みなのかもしれません.
何件かに1件,その七面倒くさい承認画面のためにミスが防げるなら,逆に言うと,その承認画面がないと何件かに1件の割合でミスが起こるなら,その画面の存在価値は大きいわけです.
ノーチェックでいきなり10倍量の処方箋を発行してしまうリスクを回避できるなら,甘んじて受け入れた方がよいと思います.
『ほんとにいいんですか?』みたいな無駄な承認なら面倒なだけで,削除した方がよい場合もあるかもしれませんが,薬の重複投与や禁忌薬を処方しようとしているのを確認するような承認画面であれば,大変意味があるのではないでしょうか.
それが先人の知恵による医療事故への対策なのかもしれないのです.

“電子カルテの三原則”は厚生省からの通達によるものということであったが,厚生省自身は年金記録の保存をお粗末に行っていたのにという思いがあり納得がいかなかった.

銀行の業務が正確に行われ,我々の財産が守られているのは,口座番号で管理されているからに他なりません.
住所や氏名は変更が加わる可能性のあるデータです.
それらに変更が加わっても影響のない口座番号をキーとしているからこそ,うまくいっているのです.

世にコンピュータが登場し,それまで紙の台帳管理だった年金の記録管理をコンピュータで行おうとした際に番号で管理しようとしたら,当時のマスコミは全野党を巻き込んで,国民を囚人みたいに番号で呼ぶのか,『国民総背番号制反対』と政府・与党に立ち向かいました.
国が国民ひとりひとりの財産を管理することができるようになれば増税につながり,とんでもないことだ,という主張でした.
コンピュータを導入すると,何でも自動化されてしまい,労働者の仕事が減って大量の首切りが発生する,と思われていた時代です.
当時作成された映画や漫画は,未来の世界ではコンピュータが世界を支配していて,それに対して主人公が立ち向かう,というものでした.
登場したばかりのコンピュータは恐れられ,何でもコンピュータにデータ入力することがためらわれました.
多くの国民も,郵便は住所氏名で届くのだし,当時の台帳に載っている項目だけコンピュータに入力すればよい,と理解しました.
単純に,記録先を紙の台帳からコンピュータに変えればそれでいいじゃないか,と.

ところが,最初の頃のコンピュータは今のように自由に日本語を操ることができず,英文タイプライターで打てる文字,つまり,いわゆる『半角英数文字』しか認識できませんでした.
そこで,住所や氏名は『コード』で入力することになりました.
たとえば,『東 清治』という氏名なら『456C 4036 3C23』という具合です.
登録されたデータを見ても何のことやら分かりませんが,同じコード表を見れば漢字に戻せますから,一種の暗号化を行ったに過ぎません.
しかし,コード表の中から漢字のコードを探しては手入力していたわけですから,面倒くさいだけでなく,間違いも起こしやすく,何よりも作業に時間がかかりました.

ですから,その後,コンピュータにカタカナを直接入力できる機能が付加されたときには,漢字をコード表で探す作業をやめ,カタカナでだけ入力したのです.
元々,年金台帳にフリガナの項目がなかったのが災いの元でした.
正しい読み方であるかどうかに関係なく,一つの漢字は一つの読み方にして入力の効率化だけが図られてしまったのです.
入力は格段に楽になりましたが,同じ読みの漢字は大量にありますから,カナから元の漢字にはうまく戻せないことは初めから分かっていたはずです.
しかも,一つの漢字には一つの読みと決められていましたから,『東 清治』さんは,本来の読みは『アヅマ キヨハル』だったとしても,登録されたのは『トウ セイジ』になっていたかもしれません.
このため皆さんご存じの通り,誰の記録かわからないものが大量に入力されてしまったのでした.

ここで注意しなければならないことは,現場で勝手におかしなことをやってしまってはじめて消えた年金記録が生じたのではなく,その大元の原因は,年金番号を付けずにコンピュータ入力することを国会で議決したこと,そして,それを扇動したのはマスコミだった,ということです.
憲法で保障されている国民の財産権が侵害されてしまったのですから,憲法違反の法律を作ってしまったのかもしれません.
現代では,低所得者が増えたため,税収を増やす方法は累進課税である所得税ではなく,消費税率をいじることになってしまいましたから,今回,年金番号を付けることに対する慎重論はあまり聞かれませんでした.

さて,当時の国民が番号を付けないという選択をしてしまったということは,そのことによって得をした,あるいは胸をなで下ろした人がたぶんいたのでしょう.
そうでなければ,このようなリスクのある制度は作れなかったのではないかと思います.
多くの庶民は,国に全財産を知られても増税にはなったりはしないはずですが,それでは困るという人たちの扇動に全国民が流され,そして,大量の『消えた年金』が発生したのかもしれません.
あるいは,年金を積み立てていなかった企業があったのかもしれません.

いろいろなことを知らないと,正しい判断ができない,先見の明がないと失敗する,ということを年金記録の問題は教えてくれるのですが,失敗の端緒にマスコミが関わっているので,そのあたりの情報は自然に聞こえてきたりはしないと思います.
テレビ番組の視聴率の話を見ても,マスコミはスポンサーの方を向いて仕事をしていることは明らかです.
従って,自分たちやスポンサーに都合のよい話しか,マスコミは伝えないかもしれない,と思っておかなければならないのです.

この件に限らず,興味を持って自分で調べてみるといろいろなことが見つかると思います.

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